神社で行列をなす、この一見行儀が良さげに見える、特に真ん中に行列ができるようになったのはここ数年のことです。以前は参拝者は皆雑多に好きなように参拝していました。従来、境内において参拝者は皆、穢れを祓われ、神様との対話をそれぞれの気持ちが満たされるまで思い思いにそれぞれの時間を過ごし、清らかな気分で帰途に着いたものです。ところが、
行列、つまり並ぶということは、順番の先後すなわち順番待ちという意識を生じさせますから、拝殿の両端などに誰も並んでいないがためにさっとそこに行って参拝すると、行列に並んでいる人からしたら横入りのように思う人もいるでしょう。他方で、両端には誰も並んでいないのだから真ん中に並んでいる人々には両端で参拝する意志がないことは明らかであり、先順位を放棄しているのは明確であるから、誰に咎められるいわれはないはずですが、そう思ってさっと両端で参拝しつつも「後ろに並んでいる人には横入りのように思われているのではなかろうか」とついつい後ろめたい気になってしまう人もいるでしょう。また、順繰りに参拝するとなると、次の人が待っているから早く済ませなくちゃと急かされた気持ちになり、十分にじっくりと時間をかけて神様と対話できないという人も少なくないでしょう。逆に、「いつまで祈っているんだ」とイライラする人もいるでしょう。参拝は遊園地のアトラクションではないのですから、集団心理で、順繰りに数十秒ずつなどという暗黙のルールを勝手に作るのは間違っています。
賽銭箱の上に「祓へ給へ 清め給へ 神ながら 守り給へ 幸へ給へ 神拝詞三唱して 二拝二拍手一拝」又は「二拝二拍手一拝 神拝詞 祓へ給へ 清め給へ 神ながら 守り給へ 幸へ給へ(三唱)」と案内板があるのを見たことがある人も少なくないでしょう。案内板が置かれていない神社もありますが、神拝詞は唱えるべきであり、これを三唱していたら単に祈願するだけよりも多少は時間がかかりますから、参拝時間を見るに神拝詞を三唱している人はかなり少ないようです。神拝詞三唱をして心ゆくまで神様の御加護に感謝申しあげ願意を申しあげようとすると、後ろに並んでいる人がどの程度心に余裕があるかわかりませんから、早めに終わらせなくちゃとどうしても急かされることになります。
このような余計な気疲れなど気枯れ、すなわち穢れそのものです。そして行列に並ぶと多かれ少なかれ精神的・体力的に疲れますから、既に行列に並ぶだけで穢れを受けてしまったわけです。そして他人にも穢れを与えている。つまり、神前で行列をなすということは、何となく行儀が良さそうな感じがしても、気のせい、錯覚であり、むしろ害悪ですらあります。神様や他の参拝者に対して気遣っているようで全然他の人のことを思いやれておらず、逆効果となっており、本末転倒です。絶対に止めましょう。良かれと思っても神聖清浄な境内で穢れを生じさせてはいけません。我先にと押し退け掻き分けるのでなければ問題ありません。混雑していて多少並ばないといけないにしても、それは賽銭箱に投入するまでで、参拝は少し離れてすればよいのです。
特にこのような有害な新習慣が出来たのは従来あまり神社に来なかった層、大して信仰心もない層、テレビでやっていた参拝方法をよく考えずに真似して、特にパワースポットにとりあえず来とけばいいことあるかも!?的な軽いノリで来た人が形成したものではないでしょうか。長年神道を篤く信仰して足繁く参拝してきた崇敬者にとっては、行列は異様な光景であり、違和感であり迷惑でしかないはずです。
確かに参拝者が増えることは、神威高揚に資する側面がありますが、このようなライトな層が人数面において多数派となって悪しき集団心理を作用させるのであれば、神威高揚に比して穢れが少なくないと言わざるを得ません。信仰心が大してないライトな層が幅を利かせることで、行列の集団圧力に辟易した崇敬者の足が遠のき、ライトな層の多くは1回来て即時の御利益を感じなかったら来ませんから、しばらくはライトな層であふれかえるかもしれませんが、ブームが去ったあと、寂れてしまいます。ですから、例えば賽銭箱を3つ置いてある神社に長蛇の列が3つできて、神職が「5列に並んでください」などと声を張り上げていること、あるいは賽銭箱前にテープを貼って数列分のスペースを区画している神社があります。これは、別に5列で並ぶルールがあったわけではなく、長蛇の列を何とか解消したくてやっている苦肉の策です。
このような害悪な新習慣は伝統化する前に早々に撲滅しなければなりません。行列を見ても無視し、行列に協力しないようにしましょう。行列がなくとも、誰かが祈っているとすぐ後ろで待つ人がいますが、これはあなたの後から来た人が見たときに行列の種となりますので止めましょう。一人でひっそり参拝したいがために待つなら離れたところにいてください。あるいは、複数の賽銭箱がある神社に家族連れ・友人連れで来て、賽銭箱前があいているのに、賽銭箱・鈴1つにつき1人だと思い込んで、一緒に祈りたくてじっと待っているグループがよくおり、後ろの人は「なんで空いているのに行かないんだ」とイライラすることもあるでしょう。このように、ライトな層は賽銭箱1つ又は鈴1つにつき1人分のスペースであるかのように勘違いしているようですが、賽銭箱前は、懺悔室ではないのですから、断じて区画されてはいないし、祈願中の人の排他的・独占的スペースではないのです。誰かが祈っていても、堂々と脇に立って御賽銭を投じ、祈ってよいのです。数年前までは、誰かが祈っている脇から賽銭を投じて満足するまで祈るというのはどこの神社でもごく普通に見られた習慣でした。
混雑しているときは、御賽銭を投じたら離れたところで本殿に向かって参拝してください。本殿の扉はしまっている上、通常、拝殿よりも本殿裏・脇の方が御神体に近いですし、特に鎮座している山などそのものが御神体の場合はどこで祈っても同じであり、御神体に最も近いのは、あなたの足の裏です。
そして、参拝者の視点では、拝殿前に立ったときに真ん中と端に違いが大きいような気がするかもしれませんが、本殿の御神体のあたりから見れば、真ん中も両端も大して変わりありません。
このように、真ん中にこだわって、みんなが並んでいるからといって、あるいはなんとなく行儀が良さそうに思って行列を作る人々は、自分の視点からしか物を考えられない狭量な人々といえるでしょう。このような人々から穢れを受けたり、参拝時間を遠慮させられたりすることは、絶対に許してはなりません。断乎としてこのような悪習慣は早期に撲滅して気持ちの良い参拝を奨励しましょう。
これはエスカレーターの乗り方に似ています。昨今、エスカレーターの事故が相次ぎ、鉄道会社などは安全のためエスカレーターでは歩き・駆け上がらないよう呼び掛けており、これは関東でいえば右側は歩き・駆け上がる人用という従来の習慣を否定し禁止するものです。歩き・駆け上がりが禁止であれば、両側に立ったまま乗れるのであり、行列は半減するのですから、右側にどんどん立ち乗りすれば合理的効率的なはずですが、人々は長年の習慣からこれを止めず、相変わらず左側に行列をなして並んでいます。エスカレーターの管理権を有する鉄道会社の指示に従って右側に立ち乗りするのですから、誰に咎められるいわれはないわけですが、人はどうしても長年の習慣に反しないように、ついつい右側への立ち乗りには遠慮してしまうようです。というより、行列があったら並びたいのかもしれませんが、少なくとも神社においては止めましょう。